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第六十三回 198X年11月20日 
僕は毎日アルバイトに出かけた。 中華料理屋の店主は、殆ど口をきかないが、おかみさんはよく喋る。 皿を洗っている合間にも、賄いを食べている間にも、何やかやと話しかけたり質問をしたりする。 あんた独り暮らしなのかい、しっかり食べなきゃダメよ、学校はどうして辞めちゃったの、家族はどこに住んでるんだい…云々。 僕は、一つ一つの質問に全部丁寧に答えた。 兄弟はいないのかい、と訊かれたので、「弟はこの間死にました」と答えると、おやそうかい、アタシも妹を若い頃に亡くしてねぇ、と言いながら、杏仁豆腐を出してくれた。

ヨウからの電話は、あれ以来一度もなかった。 

アルバイトから帰ると、僕は毎日絵を描いた。 電話機とか、ベンチとか、フェンスとか、そういうものを描いていたが、ある日、たまたま早起きしたので海沿いにある工場地帯に行ってみた。 細いパイプや鉄骨が複雑に組み合わされた銀色の配管の隙間から、赤と白の二色に塗り分けられた数本の煙突が空を突き刺すように伸びている。 どうして、こんな奇妙で巨大なものがこの世にあるんだろう、と思いながらスケッチしたが、色のない黒鉛筆で描いた方がうまく描けそうだったので途中でやめた。 僕の身長よりも大きなパイプが死んだ蛇のように地面を這うさまや、尋常じゃない大きさのタンクやなんかを眺めていた。 

ずっと潮の匂いがしていたのに気づいた。
ふと、中学の頃、海を見ながら、カツミがどこか遠くへ行きたいと言っていたのを思い出した。
「どこかって言われても、よくわからないんだけどね、海を見てると、この先にはもっといい場所があるかも知れないのに、どうしてお前はここに居るんだって聞かれてる気がするんだ。」
その時、僕は、巨大な木造の船に乗って、どこかに移動しつづける自分を想像した。 船の脇腹に数え切れない数の波が当たって散り、その波の奥まで目を凝らして見てみると、船の動きとは無関係に動き続ける水の中が透けて見える。 どこにも辿り着かなくても構わないから、そういう流ればかりを見続けて生きるなら、とても楽しそうだと思ったので、「それは、いいな」 と、カツミに言ったのを憶えている。

その日の夜、アルバイトを終えて、アパートに帰って寝ようとした時、僕はあることに気が付いた。
色のついたヨウの絵を、まだちゃんと描いていないということだった。 
布団から出て、ジャージをはおり、スケッチブックにヨウの顔を描いてみたが、全然描けなかった。
この前、鉛筆で描いたときは、どんな風に描いたんだろうかと思い出そうとしたが、そんなことをしても無駄だろうなぁ、ということがすぐに分かった。 
「あなたは何っにも分かってない」
ヨウに言われた言葉を何度か思い出したが、どのくらい分かってないのかもよく分からないから僕は困っているんだ、と思い、それから、ヨウを描けないなら、もう一度見に行こう、と思い立った。 

それで、次の日、アルバイト先の店主に、急ですみませんが夜の仕事を休ませてほしいと言った。 おかみさんが、あぁ、たまには息抜いておいで、と言い、店主はタバコを吸っていた。

昼の仕事が終わり、賄いを食べたあと、家に帰って、スケッチブックと色鉛筆をカバンに入れて、外に出た。 夜の仕事をわざわざ休んだのは、うまく描けそうな感じになったら徹夜しても描こうと思ったからだ。 天気はとてもよく、11月だというのに、結構、暖かかった。 前回、ヨウを見舞った時には気まずい雰囲気になったけれど、絵を描かせて欲しいと言えば、ヨウはきっと機嫌を直すだろうと考えたりしながら、大通りを歩いた。 

病院に着いて、ロビーを抜け、階段を一段飛ばしで駆け上がり、ナースステーションを通り過ぎるまでは、いつもと同じだった。 違和感は、ヨウの部屋の場所を認めてから始まった。 緩んでいるはずの空気が、少し冷えたような感じがした。 近づいて、ドアに手を掛けて開いた。
部屋には誰も居なかった。
廊下に出て、ヨウの名札がないことを確認した。 
ナースステーションで聞いてみると、ヨウは2日前に退院していた。

その日の夜、僕はヨウの家に電話をしたが、誰も電話には出なかった。
| 西岡宏輝 | 02:08 | comments(0) | - | pookmark |
第六十二回 198X年11月13日 
それから、僕は毎日アルバイトに行き、アパートに戻ると色鉛筆で絵を描いた。 

ヨウからは、あれ以来、2,3度、電話があった。 きまって3時半から4時の間に掛かってきた。 ある日の電話で、ヨウに、今度絵を見せに行くよ、と言ったら、「明日はどう?」といきなり言われた。 
「明日、タカコさんが来ないの」
ヨウの入院する病院は少し遠いので、その日の夜、アルバイト先の店主に、「明日の夜、少し遅刻させてください」と言ったら、ああいいよ、と厨房で煙草を吸いながら店主は答えた。

翌日、スケッチブックを持って病院に行った。 スケッチブックは、今描いている色鉛筆のやつを持って行った。 
病院のロビーを抜けた廊下を2度曲がったあと、右手にある薄暗い階段から3階に上がると、左手にナースステーションがある。 そこを通り過ぎると、少し空気が変わる。 空気が緩むというか、妙に身体に馴れたような感じになる。 そこからが入院患者の病室で、ヨウの部屋はナースステーションにすごく近い302号室だ。
ノックしてから、ドアを開けると、ヨウが坐っていた。

ヨウの顔を見て、リンゴを買ってくるのを忘れたことに気づいたので、それを告げると、ヨウは誰かのお見舞いの果物カゴの中からリンゴを取り出した。 その皮を僕が剥いた。 少し上手くなっていたのが、ヨウには不満そうだった。 

リンゴを食べたあと、手がベタベタするので、ハンドタオルを濡らしてきて欲しいと言われた。 その時に気づいたのだが、ヨウの脚のギプスには何か文字やら絵やらがごちゃごちゃと描き込んである。 
廊下に出て左に行くと、右手に台所があって、僕はそこでタオルを洗った。 さっき見た、ヨウのギプスに描かれていた妙な絵が何なのか気になった。 キリンだろうか、トナカイだろうか…? あとでもっとよく見せてもらおうと思った。
洗ったタオルを持って病室に戻ると、ヨウはベッドの上でスケッチブックを眺めていた。 僕からタオルを受け取ると、それで指先を抜くように拭いて、またスケッチブックを開いた。 ヨウは微笑みながら、「ずいぶん絵の感じが変わったのね」と僕に言った。
どんな風に変わったのかを訊くと、ずいぶん考えてから、「色がついた」と言った。 冗談なのかどうなのかわからなかったが、ありがとう、と言うと、笑って頷いていたので、きっと褒め言葉だったんだろう。 
「じゃあ、今まで描いた絵は置いていくよ」と僕は言い、スケッチブックから、描きかけの絵だけを残してあとは切り離した。

それから、僕はヨウのギプスに描かれた絵を見せてもらった。 驚いたことに、ギプスの動物はキリンでもトナカイでもなく「ねずみ」だった。 誰が描いたの? と訊くと、悪びれもせず「アタシよ」と平然と答えたので、僕はそれ以上何も言わなかった。
そのあとヨウはベッド脇の小さな冷蔵庫からプリンを取り出した。 「食べる?ひとつしかないけど?」と、聞かれたが、僕は、どうぞどうぞ、と言うしかなかった。
「加瀬さんはどうしてるの?」
と尋ねると
「…ん…土日以外は夜しか来れなくなったんだって。 もうすぐ退院だしね。」
スプーンを口に入れたまま、ヨウは答えた。
「タカコさんはね…」 ヨウがまた口を開く。 「アタシが遠くに行けばそれで満足なのよ。」
何を言ってるのかさっぱり分からない。
「じゃあ、退院する日が決まったら教えてよ。」
と、僕が言うと、プリンを掬いながらヨウはうんうんと頷いた。

「…本当はね…」
プリンをあらかた食べ終わった頃、窓の外を見ながら、ヨウが口を開いた。
「…全然ダメだったの…」
外は晴れている。 家々の屋根が見えて、いくつかの家から光が反射している。 
「何が?」
「…バイオリン…オランダでね。」
…オランダかぁ…
「全然、ついて行けなかったの、はじめから。」
なんでもないような顔で、ヨウは喋っている。
「…まぁ…でも言葉とかも、いろいろ難しかったんだろ?」
「言葉が分からなくてもね、バイオリンが弾ければ大丈夫、って思ってたの。 でもね、入学した時点で、みんなアタシより上手かったの。 もう全っ然ダメ。」
ヨウは笑っている。 僕もつられて笑えばよかったのだが、なんとなく黙って、うつむいてしまった。 あわてて、そんな顔をするのはマズイと思って顔を上げると、ヨウと目が合った。
「だから、加瀬さん達にはイヤになって帰ってきたって言ったけど、本当は落第が決まる前に、辞めただけなの」

ヨウは、それだけ言うと、今度は黙ってしまった。
加瀬さん達、というのは、あのコロコロ声のタカコさんと、その亭主のことなんだろうなと思ったが、どうしてヨウがこんな話をしはじめたのか、全然わからなかった。

「どうして、加瀬さんに本当のことを言わないの?」
一瞬、ヨウの表情が曇ったように見えた。
「…だって、言いたくない…あの人には、何にも言いたくない…」
声が少し震えていた。 よく見ると、手も震えている。 ヨウの手から、スプーンとプリンのカップを取ろうとしたときに、ヨウが僕の手を握った。 
カップがベッドに転がり、スプーンが床に落ちて音を立てた。
「…私…もう…あの家には行けないの…」
ヨウの手はとても冷えていた。
ヨウの言っていることはさっぱり分からなかったが、とりあえず何か言わなきゃと思った。
「…でも…また、頑張ればいいじゃない。 カツミは、退院しても、サッカーができなくなったけど…ヨウはまたバイオリン弾けるんだし…」
僕がそう言ったとき、突然、ヨウはボタボタと大粒の涙をこぼして、僕の手を振り払った。
驚いて、僕がヨウの手をまた取ろうとすると、何度も振り払い、何度もイヤイヤをするように首を振った。 首を振るたびにヨウの髪が乱れ、乱れた髪の隙間から、目と鼻先を真っ赤にしたヨウの泣き顔が見えた。
「…あなたは、何っにもわかってない…」
ヨウが吐き出すように言った。
「あなたが、カツミさんの…何を分かってるって言うのよ。」
えっ…?
「私の何をわかってるって言うの?」
僕は動けなかった。 声の一言も出すことができなかった。
「…私だって同じなのに…」
ヨウが絞り出すように小さな声で言うのが聞こえた。
それから、ヨウは何も喋らなくなった。
| 西岡宏輝 | 02:23 | comments(0) | - | pookmark |
第六十一回 198X年11月10日
アルバイトを始めて1週間ばかり経ったある日、休みの日ができた。 
昼近くまでぐずぐずと眠り、ゆっくり起きて、ゆっくりパンを食べ、それから天気が良かったので、アパートの共用の洗濯機で洗濯をした。 その間に近所のスーパーに行って、リンゴと歯磨き粉を買った。 アパートに戻ると、まだ洗濯は終わっていなかった。 がぅんがぅんと回る洗濯機の横に座りながら、トタン屋根の向こうに見える空を見た。 ブランコに乗って空を見上げた時のことを思い出した。 そして、ヨウの言葉を思い出し、洗濯が終わったら絵を描こうと思った。

しかし、いざ絵を描こうと思ったら、自分が好きなものがいったい何なのかまるで分からなかった。
そこで、とにかく目についたものから始めることにした。 最初にリンゴを描いた。 そこそこの絵になったが、なんだかつまらないので、次に廊下に出て、廊下の窓から外を見た。 何年もここに住んでいて、この窓から外を見たのは初めてだった。 想像していた通り見えるのは線路くらいのものだったが、それでもこんな角度から線路を見たことがなかったので、結構面白かった。 それを描き終えると、アパートの外に出た。 線路脇の背の高いススキ、蟻の巣、ハミガキのチューブのフタ、捩れたグリーンガムの包装紙、下から眺めたフェンス、R2-D2に似た形の雲、そんなものをとにかく短い時間で、一気にスケッチした。 

それだけ描くと、スケッチブックがもうなくなってしまった。 そこで、スケッチブックを買いに2駅むこうの駅まで出かけた。 そこは前に小野さんと二人で晩飯を食べた街で、割と大きなショッピングセンターがある。 その中に画材屋が一軒あり、僕はそこで適当なスケッチブックを選んで買った。 店の中を見ているうちに、なんだか他にも何か買いたくなった。 色々と迷った挙句、結局、油性の色鉛筆のセットを買った。 

家に帰ってから、さっそく色鉛筆で何か書くことにした。 外に出て、線路脇のフェンスとその向こうに見える夕焼けを描いた。 やっぱり色鉛筆という選択は正解だった。 サッと使えて、おまけに面倒臭くない。 まるで僕向きだと思った。
ヨウに今日描いた絵を見せたら、何と言うだろうな、と考えながら眠った。
| 西岡宏輝 | 22:26 | comments(0) | - | pookmark |
第六十回 198X年11月6日 
中華料理屋は店こそ小さいものの、そこそこ繁盛している店で、厨房には5,60代くらいの店主が居て、ひとりで料理を作っている。 接客はおかみさんがやる。 僕の仕事は昼時と夜の皿洗いやら雑用やなんかだった。 
昼の忙しい時間が終わる午後2時半で店を閉めて、店主は夜の仕込みを始める。 賄いを食べさせてもらった後、僕は3時から5時まで家に帰る。 別に家に帰らなくても構わないのだが、店に居ても特にすることもないので家に帰る。 

その日もアパートに着いて、ごろりと横になった時、ピンク電話のベルが鳴った。
ヨウからだった。
「…もしもし…」
何度もここで聞いた、ヨウのくぐもった声がする。
「…あぁ…もしもし…」
「もしもし」
「…電話とか、かけられるんだ…」
「…最近はね…松葉杖で、割と歩いたりできるのよ…」
「どこから掛けてるの?」
「言わない」
「何それ?」
「秘密よ」
笑ってしまった。
「…このごろ…どうしてるの…?」
「…アルバイトしてるんだ…」
「…へぇ…絵でも描いてるのかと思った」
「…絵って…?」
「なんとなく思っただけよ。何のバイトやってるの」
「中華料理屋」
「中華なの? どうして?」
「募集してたから」
「じゃあ、今度、何か作ってよ」
「できないよ…皿洗ってるばっかだし…」
「…あぁ…そうね…リンゴの皮もむけないものね…」
ヨウの笑い声がきこえる。 
ふと思いつきで、ヨウに言った。
「加瀬さんに言われたんだ、もう見舞いに来るなって…」 
「……」
まずかったかな、と思ったが、何か話さなきゃと思った。
「…腹が立った…ものすごく…」
ヨウは黙っている。
「……」
こんな話もうやめようと思いながら、話しはじめると自分で自分を止めることができなかった。
「どうしてあんな事言われなくちゃならないのか、まるで分からない」
「…ご…めん…なさい…」
ヨウの声が震えている。
「こっ…こっちこそ、ゴメン」
「……」
「ヨウに言うことじゃなかった、本当にゴメン。」
「……」
ヨウは何も言わない。
「……」
「じゃあ…」
電話を切ろうとしたときに、ヨウが急に話し始めた。
「…あのね…」
「…ん?…」
「…あの…加瀬さん…って言うか、加瀬さんの奥さん…タカコさんっていうんだけど…」
「…どうしたの?…」
「…悪い人じゃないのよ…」
「でも、ヨウはキライなんでしょ」
「…でも…そうなの…悪い人じゃないの…」
「…わかったよ…」
「…本当に?…」
「…あぁ…」
「…じゃあ…アルバイト頑張ってね…」
| 西岡宏輝 | 01:56 | comments(0) | - | pookmark |
第五十九回 198X年11月3日 
次の日、またリンゴを買って僕は病院に行った。
なんと、ヨウは個室に移っていた。
カツミの例があったから、いずれはそう来るだろうと予想はしていたが、予想よりも2日は早い展開だ。 部屋に入ると、これは予想通り、コロコロ声の加瀬さんが、とてもチャーミングなスマイルでヨウのベッドの傍らの椅子に坐っていた。 
僕の姿を見て、まず最初に「ごめんなさいね、こんなところで」と言った。 それから僕の持ってきたリンゴを見て、「あら、あなただったのね、いつもヨウちゃんにリンゴを差し入れてくれたっていう人は」 ありがとうね、と言いながらコロコロと笑った。 
それから、加瀬さんは僕に「ゆっくりして行ってね」と言い残し、買い物に出かけた。
その間、ヨウは怒っても、笑ってもいなかった。

加瀬さんが出かけたあと、僕はまたリンゴの皮を剥いた。
途中でヨウが何か言ってたが、僕は妙に皮を剥くのに集中してしまって、何をいったのか聞き逃してしまった。 ヨウに尋ねてみたが、何も言わないので、そのままリンゴを剥き続けた。
やはりリンゴはでこぼこだったが、ヨウは満足そうだった。
ヨウが歪んだリンゴの一かけらをつまむ。
ヨウを見ながら、加瀬さんから聞いた話…「ヨウをあげるから、借金を肩代わりしてほしい」とヨウの父さんが言ったという話を思い出した。 ヨウもあの話を知っているのだろうか…いや、僕に話すくらいだから、加瀬さんはとっくにヨウに話してるはずだ。 
ヨウがリンゴを噛んでいる。
加瀬さんのことを「キライ」と言った時のヨウの表情を思い出した。
ヨウの右頬がぼっこり膨らんで動くのにつれ、しゃりしゃりと音がして、ヨウは笑う。
他人を「キライ」と言う気持ちというのは、こういうものなのかと少し解った気がした。

ヨウの部屋を出て、病院のロビーにおりると、コロコロ声の加瀬さんが坐っていた。 僕がどうも、と会釈して通り過ぎようとすると、彼女は僕を呼び止めた。 そして言われるままロビーの椅子に坐って、彼女の話を聞いた。
「ナカジマさんがとってもヨウちゃんの事を心配してくれて、それはとってもヨウちゃんの救いになってると思うの。 だから、誤解しないで欲しいんだけど、私はあなたにはとっても感謝しているの。」
昼間の病院のロビーにはとてもたくさんの人がいた。 きちんと背広を着た男の人も多く、それからガウンや浴衣を着た入院患者も案外たくさんウロウロしている。 どういう訳だか背広の人達がみんな険しい表情をしているのに比べて、もっと深刻な顔をしてもいい筈の入院患者の多くが相好を崩してリラックスしているのが妙だった。
加瀬さんの話は続く。
「でもね、ヨウちゃんはこれまで急激に色々の事があって、精神的にとても不安定になっていると思うの。 だからね…」
要するに、僕に今後ヨウの見舞いを遠慮して欲しい、ということだった。

病院を出て、僕は国道を歩きながら帰った。 
帰り道の途中で、中華料理屋に「アルバイト募集」という貼り紙があるのに気付いた。 一度通り過ぎ、それから思い直してもう一度戻って店に入り、次の日から働くことを決めた。 
それから僕はほぼ毎日アルバイトに出かけた。 悔しかったからだ。
| 西岡宏輝 | 00:04 | comments(0) | - | pookmark |
第五十八回 198X年11月2日 
翌日、僕はリンゴを一つ買って、またヨウの病室を訪れた。 
昨日のことがあったので、きっと怒ってるだろうと思ったが、そうでもなかった。 ヨウはまだ脚を天井から吊ったままだったが、僕がやってきたのをみると笑っていた。
リンゴを見せるとそれを手にとり、「剥いてよ」と笑ったまま僕に返した。 
ところが困ったことに、僕はとても不器用で、リンゴなんてまともに皮を剥いて食べたことが無かった。 僕の肩に過剰に力が入っているのと、僕がリンゴを親指でグイグイ押しながら皮を剥くものだから、ヨウは、何やってるのよ、と僕の手元を指差して笑った。 ちょっとは助けてくれるのかな、と僕はヨウに期待していたのだが、そんな事はまるでなかった。 ダメだねぇ、とか何とか言いながら、僕の手つきを眺めているだけだった。 そういう訳で、結局、リンゴはデコボコになり、ところどころ僕の指の力で茶色く変色してしまうという、我ながら目を覆いたくなる具合になった。 
それをできるだけ等分に切り分けて、ヨウと二人で食べた。 
形はともかく、リンゴは、まぁ、おいしかった。 
ヨウは食べながら、「これからユウスケはここに来るたびに、リンゴの皮をむくのよ」と、勝手に決めていた。 

リンゴを食べ終わってから、僕はヨウに花屋のアルバイトの事を尋ねた。
「…あぁ…誰か代わりの人が居るみたい…」
ヨウはつまらなさそうに答えたが、それを聞いて、ふと気になったことを尋ねた。
「…ここのお金はどうしてるの? 入院費って高いんじゃないの?…」
彼女は急に暗い顔をして黙り込んだ。
ヨウにはお金が無いんだと思った。 でも僕にもお金なんて無い。 とっさに小野さんの顔が頭に浮かんだ。 小野さんなら何だか頼めそうな気がしたので、ヨウにそう告げると、彼女は急に表情を固くして首を振った。 
「違うの、加瀬さんに頼んだの。」
「もう明日からおばさんが来るの」、とヨウは呟いた。
「えっ、それって、いつ頼んだの?」
けさ。
…けさかぁ〜…
コロコロ声の加瀬さんの顔を思い出していると、 
「ユウスケは、加瀬さんが苦手なんだぁ」
突然、ヨウが言ったので、「…そ…そんなことないない…」と慌てて否定すると、
「…私はキライだけど…」
とヨウが言った。 玉ねぎが嫌い、とでもいうような言い方だった。
「まぁ…お金くれるから、感謝はしてるんだけどね…」
キライということを、そんな風に簡単に断定してしまえるヨウに驚いた。
考えてみると、僕には苦手な人ばっかりだけど、キライって程でもないなぁ…と思いながら天井を見上げた。 小さい虫が飛んでいるのが見えた。 
その動きを目で追いながら、不意に、僕は中学校の入学式の日のことを思い出した。 
その日カツミはとても緊張していて、式の途中からみるみるうちに顔色が悪くなりはじめた。 僕は何度か「大丈夫か?」と尋ねたけれど、カツミはだんだん反応しなくなり、とうとう倒れてしまった。 すぐにタンカに載せられて保健室まで運ばれ、小野さんも香子さんもカツミに付き添った。 式が終わった後、保健室の近くまで行くとカツミはもう回復していたらしく、小野さんと香子さんが楽しそうに喋っている声が廊下から聞こえた。 その声を聞いてなんだか僕は保健室に入れなくなり、グラウンドに出て鉄棒に逆さまにぶら下がったりして時間を潰した。 空は晴れていて、とても高くて、ずっと遠くを飛行機が飛んでいくのが見えた。 

気が付くと、ヨウがこっちを見ていた。
あれこれ考えている間に、僕の方がヨウの顔をじっと凝視してしまっていたようだ。 
慌てて目をそらして、帰り支度をした
「…明日も来るけど…いいのかな…」と、ベッドから離れ際に尋ねた。
ヨウは「うん。」と言ったあと、「もちろん」と、付け加えた。
そのとき、僕はきっと真っ赤になっていたに違いない。
| 西岡宏輝 | 00:13 | comments(0) | - | pookmark |
第五十七回 198X年11月1日
どうしても香子さんに会って色々と尋ねたくなったので、次の日の夕方、小野さんの家に出かけた。 ところが小野さんの家に着く前に小野さん本人に出会ってしまった。
「ウチに用事かい?」
もうあと数十メートルだというときにいきなり背後から声を掛けられた。 驚いて振り向くと、背広を着た小野さんが立っていた。
…あ、どうも、おかえりなさい…
僕がそう言うと、間髪入れずに、
「メシ食いに行こう。」
と言って、小野さんはくるりとUターンして、スタスタと歩きはじめた。 香子さんは呼ばなくていいのかと思い、僕はわざと膨らんでUターンをし、振り返りざまに小野さんの家の方を見た。 家には灯りが点いていなかった。
駅が近づくにつれ、小野さんがどの店に行こうとしているのかを考えた。 多分、小野さんが行きつけの駅前の「グリル 平井亭」か、「すし割烹 おがわ」のどちらかだろうと想像した。
ところが小野さんは駅前に来ると、なんとそこから電車に乗って、2駅も行ったところで降りた。 それから、その駅前の繁華街に入っていき、どこがどうつながっているのかさっぱり分からない路地をくねくねと曲がったところの一軒の店の扉をガラガラと開けた。 一軒の店と書いたが、表には看板も暖簾もないから、小野さんが扉を開けてはじめてそこが食堂だとわかった。 だからと言って、知る人ぞ知る、というような重厚な雰囲気はまるでなく、店に居る客は年齢もばらばらで、ただ、やけに男客ばかり多いのと、皆なんだか一様に緊張感の抜けたような、丁度、競馬かパチンコから帰ったばかりのような雰囲気を漂わせていたのが特徴と言えなくもない。 店に暖簾や看板がないのも、単に面倒だからなんじゃないかと思わせるような、本当に、どうってことのない店だった。 
小野さんは、店に入るなり、なんだかゴニョゴニョと呟いて、奥の方を指差して入っていく。 店の奥に行ってみると、とても汚らしくて狭い座敷があって、そこに小野さんはどっかりと座った。 
それから、小野さんはお茶を持ってきた店のおかみさんにゴニョゴニョとまた何かを頼んだ。 
「…あ…メニューはなぁ…あっち」と、僕に向かって、今、通り抜けてきた店内のほうを指差した。 座敷を出てみると、赤い縁取りの短冊に1品ずつ書かれたメニューが、壁一面に貼られていた。 僕はとても腹が減っていたので、さんざん悩んだ挙句、おでんの大根と玉子、それからもずくとトンカツ定食とウーロン茶を頼んだ。
「ここには、よく来るの?」
座敷に戻って、僕がそう聞くと、
「…ん…時々…かなぁ…」
と顎をさわりながら、小野さんは答えた。 確かに、小野さんの様子を見ていると、慣れてはいても、特にこの店の顔馴染というわけでもなさそうだった。 
ところで、さっきから僕はとても戸惑っていた。 なぜなら、こんなにボンヤリとしてはっきりしない喋り方や雰囲気の小野さんは見たことがなかったからだ。 僕とカツミが見ていた小野さんは、いつも明るくて知的で、とてもしっかりした人だった。
小野さんにビールとスジコンニャクが運ばれてきた。
「僕はてっきり『平井亭』か『おがわ』に行くんだと思ってた。」と言った。 小野さんは、特にそれに答えるでもなく、ただビールをグラスに注いでいる。
「でも、面白い店だね、ちょっと意外だけど…嫌いじゃないよ…」
小野さんはふふんと笑うだけだった。 僕の言葉にちゃんと答えない…こんな小野さんも初めてだ。 小野さんはいつからこんなに変わったのかと思ったが、考えてみれば小野さんと二人でどこかに出掛けたり何かを食べたことなんて一度もなかったのに気付いた。
「香子さんとは、この店には来たことがあるの?」
小野さんは、それにも答えず、僕に今運ばれてきたウーロン茶を注いだ。
それから小野さんはネクタイを緩めて、「乾杯」と、言った。 

「ねぇ、香子さんって昔はどんな人だったの?」
小野さんはスジコンニャクを突付きながら笑っている。
「小さいときは分からなかったけど、香子さんってさぁ、キレイだしおしゃれな人だよね。」
「…そういうのは、オレじゃなくて、本人に言うべきだな…」
小野さんはふふんと笑う。 
「なるほどね」と答えてウーロン茶を飲み、スジコンニャクをひと口もらった。 小野さんがあまり喋らないというだけなのに、自分がとてもオシャベリに思えた。
「バレリーナ」
不意に小野さんが言った。 一瞬、何のことか分からなかったが、しばらくして、それが香子さんのことだと気付いた。 …バレリーナぁ?…
「初めて会ったのは…ロンドン…かな?」
小野さんはビールを飲む。
…ろ…ロンドン…?…
僕は驚いてまたウーロン茶を飲む。 モデルだったんだ、という小野さんの答えを予想していたからだ。 …「こんぶパワー」…と…「ロンドン」…ますます分からない。
「ロンドンにバレエ留学してたんだよ。」
コップにビールをさらに注ぐ。
「…尤もオレと出合った時には、もうやめてたけどな…」
小野さんと初めて出合った日、香子さんはバレエをやめて翌日には日本に帰るという日だったらしい。 
「ずっとバレエしかやって来なかったから、日本に帰ったら何でもやってみるの。」
そう言って、日本に帰った香子さんは本当に色んなことをやったそうだ。 写真を始めたり、映画を作ろうとしたり、何かの雑誌に記事を書いたり、市会議員に立候補しようと本気で考えたりした事もあったらしい。
「モデルとかもやってたの?」 思わず聞いてしまった。
…あ〜そんな事もあったかな…
小野さんはあまり覚えてないというような顔で言った。
「で、どうして香子さんは小野さんと結婚したの?」
「…さぁ?…とにかく、一度、結婚っていうのをしてみたかったんじゃないか?…」
その一瞬、この前見た香子さんの姿が頭の中をよぎった。 
僕は枝豆を取り、豆を口の中に押し出したあと、サヤを傍のカゴに放り入れた。 ウーロン茶を飲もうとしたが、グラスの中はもう空だった。 グラスをテーブルに置き、あたりを見回してだし巻き玉子に箸を伸ばした。 

そんな僕の姿を、小野さんはビールを飲みながらじっと見ている。

「なぁ、ユウスケ、飛蚊症って知ってるか?」
僕が三切れ目のトンカツをせかせかと口に運んだとき、唐突に小野さんが言った。
…知らない…と僕はカツを食べながら首を振った。
「飛蚊症ってのはな、この辺とか、この辺なんかにな…」
小野さんは、僕と小野さんの間の空中を指差しながら言う。 
「…小さい虫みたいなのがいくつも見えるんだ。」
僕は、小野さんの指差す空中のあちこちを目で追いながら、トンカツをがしがしと噛んだ。
「…でも、勿論、それは虫じゃない…」
それは眼球の中の小さな異物の影なんだ、と小野さんは、ホッケを一口食べて言う。 僕もつられてホッケの身をむしって食べた。 よく聞いてみると、小野さんも飛蚊症だということだったが、飛蚊症自体は、放っておいてもそんなに悪いものでもないらしい。 
「でもさ、そんなのウットウしくない? ゴミみたいな物なんだったら取っちゃえばいいのに。」
僕は、定食に付いている味噌汁を啜った。
「これはさ、取れないんだよ」、とまた空中を指差して言ったあと、
「だから、いくら鬱陶しくても…まぁ…付き合うだけだな。」
小野さんは笑った。
「…とても面倒そうだね…」と僕は小野さんに言った。 そんな言い方をするのは良くなかったかなと思ったが、もう遅かった。 
しかし小野さんは気にする様子もなく、僕の頼んだもずくの鉢を手にとって、一口食べた。
「でもな、付き合うコツはある。」
発見したんだよ、と言って小野さんはニヤリと笑う。
「虫を異物と思わない、それがコツだよ。」
小野さんはごくりと一口、ビールを飲んでさらに続ける。
「ついでに虫の飛んでいる視界そのものを、自分自身の身体の一部だと認めてしまえばいいんだ」
小野さんはそう言って、またビールを飲んだ。 
小野さんの髪は少しクシャクシャたった。 香子さんが見たら慌てて直そうとするに違いないと思った。

適当に腹のおさまったところで、僕たちは店を出た。 小野さんは、今度は電車には乗らず、駅前でタクシーを拾った。 僕をアパートまで送ってくれるという。
タクシーの後部座席に座って、窓の外を見ていると、何故だかヨウのことを思い出した。 

「香子は、ユウスケに、ずっと家に帰って欲しいと思ってたみたいなんだけどな…」
小野さんが急に話し始めた。
驚いて小野さんの方を向いた僕に、「俺はどっちでもいいと思うんだよ」と笑いながら言う。
「本当のことを言うと、ずっと前にユウスケが一人で暮らすって言い始めたとき、俺はとても嬉しかった…というか…俺自身、とても楽になったんだな。」
小野さんが、ずっと自分のことを「俺」と言ってるのに気付いた。 
「だって、急に親になるのは大変だったからな…子供で居ることだって面倒じゃない訳がないだろうと思ってたんだ。」 僕が独り暮らしを始めた頃、香子さんが必ず小野さんと二人で連れ立って、毎日のようにアパートにやってきたのを思い出した。 
タクシーが、すっかり明かりの消えたスーパーの傍を走り過ぎる。 子供の頃、何度かカツミと香子さんと3人で買い物をしたことがある。 あの夜着ていた服を、香子さんは、もしかしてあのスーパーで買ったのかなと思った。
| 西岡宏輝 | 22:57 | comments(0) | - | pookmark |
第五十六回 198X年10月31日
カツミが入院していたあの病院の、205号室のベッドにヨウは座っていた。 いや、ギブスで固定された足を天井から吊るされた状態だったから、座っていたというより、むしろそこに固定されていた、という感じだった。
僕が病室に入ると、ヨウは一瞬笑みを浮かべ、それから少し目を伏せて、
「本っ当に、ごめんなさい」
と言った。 足のギブスだけじゃなく、腕や肘、顔にまで怪我をしている。
…いや…だって、骨折して救急車で運ばれてるんだから、待ち合わせになんて来れる訳ないよ…
と僕が言うと、それだけじゃない、とヨウは言う。
「自転車を壊しちゃったの」
聞けば、自転車に乗って待ち合わせ場所に向かう時に、駅前で車に轢かれたのだという。 
僕はヨウを待っていた日の駅前の異常な人の混雑を思い出した。 ヨウはあの日、あの場所から救急車で運ばれて簡単な手術を受けたそうだ。
…自転車くらい、別に構わないよ…
僕はヨウにそう言った。 本当に自転車のことなんかどうでも良かった。
「でもね、自転車は私の家に運んでもらってるから…必ず返すから…」
僕は…そんなの気にしちゃいないよ…と彼女に告げた。

ここはカツミが寝ていた個室とは違って相部屋だから、とても騒々しい。 とても賑やかな部屋なんだね、と言うと、ヨウは「でも、みんな親切で楽しいのよ」、と言って笑った。
僕はなんだか落ち着かなかったので、「ジュースを買ってくるよ」と言って、病室を出た。 

とても天気の良い日だった。 廊下を歩きながら、香子さんのことを考えた。 実を言うと、昨日から香子さんのことが気になって頭から離れなかった。 不思議なことに、香子さんが男の人と腕を組んでいたことよりも、香子さんがどこかのオバサンに見えたことの方がショックだった。 よく考えれば、着ていた服も見たことないような、地味で なんだか香子さんらしくない服だったような気がする。

自動販売機でジュースを買い、また病室に戻った。 
ヨウはありがとう、と笑って、僕の手渡したつぶつぶオレンジを受け取った。 
僕は、ベッドの横に座り、コーラを空けて飲んだ。 
「あたしもコーラ、少し飲みたいな」
ヨウが言ったので、コーラを手渡した。 それを一口だけ飲んで、ヨウはまたコーラを僕に返した。
…もういいの?…
と尋ねると、うん、と頷いた。 そして、自分の持っているつぶつぶオレンジを少し持ち上げて、飲む?と僕に尋ねるような仕草をした。 僕は笑ってかぶりを振った。

「…ねぇ、本当は怒ってるんでしょ…」
と突然ヨウが言った。 僕はもういちど首を振ったが、…うそ…とヨウは言う。 
嘘じゃないよ、といくら僕が言ってもヨウはまた…うそでしょ…と信じようとしない。
そればかりか、だんだんエスカレートしてきて、
「そんなに自転車が大事だったの?」
と言いはじめた。 僕も少しかっとして、
…そんなんじゃないよ…と、言ったあと、
「だいたい、そんなにムキになって自転車に乗るなんて、ヨウの方こそおかしいんじゃないか?」
と言ってしまった。 

ヨウは、少しの間うつむいていたかと思うと、ポタポタポタと大粒の涙をこぼした。
…もぅ、いい…
ヨウは鼻に掛かった小さな声で呟いた。
…いいから、帰ってよ…
僕はうろたえて、さっきからヨウが何を怒ってるのかさっぱりわからないんだ、というようなことを伝えた。 ヨウは顔を上げず、じっとしている。 そして、
…どうでもいいと思ってるなら、心配してるみたいな事、言わないでよ…
俯いたまま、搾り出すような声でヨウは言った。

僕は黙って帰るしかなかった。 ヨウの言うとおりだったからだ。
| 西岡宏輝 | 23:40 | comments(0) | - | pookmark |
第五十五回 198X年10月30日
ヨウと待ち合わせたのは、それからほぼ一週間後のことだった。 
電話でヨウが指定したのは、例のガード下の公園だった。 「ブランコに乗って待っててよ」と彼女は僕に言った…という事は、ヨウははなから僕より遅れて来るという事なんだろうかと考えた。

とにかく僕はガード下に行って、公園のブランコに座った。 この前、ヨウがしていたように、身体をねじって空を眺めてみた。 確かに空は見えるが、ことさらよく見えるという程でもなかった。 おまけに、今日は曇り空で、ただ一面に灰色がどんよりと広がっているだけだった。 
体勢を元に戻して、今度は真上を見上げた。 ツバメの巣があった。 黄色い土と草で固められた巣の中に、小さな黒い塊がせわしなく動いているのが微かに覗いて見える。 もうすぐ…冬が来る頃には…あのツバメ達は南に渡っていくんだろう…と思った。 僕は、ツバメが去ったあとに残された巣を想像した。 その様子は、ついこの間に見た、ヨウの家を連想させ、それにつられて、僕は自分の住んでいるアパートを連想した。 連想したどちらの家も、なぜか空家だった。 

ヨウは来ない。 何十台目かの電車が、轟音を立てて頭上を通り過ぎたあと、そう思った。 もしかしたら、ヨウは今日もあの花屋で働いているのかも知れない、そして、予想外に客の数が多くて、予定時間を超えても残業をさせられているのかも知れない。 それで、僕はブランコを降り、花屋に向かって歩き始めた。 駅前は、いつもより人の数が多く、騒々しいように感じた。 僕は人波をかき分けて駅前をやり過ごし、花屋の反対車線側の歩道に立って店の中を覗いた。 この前見たおばさんと、ヨウより少し年上に見える女の子が働いていた。 どちらも茶色のエプロンをしている。 今日は、ヨウのバイトの日じゃないと分かったので、僕は近くの公衆電話からヨウの家に電話をした。
コール音が何度も鳴ったが、ヨウは出ない。
さっき連想した誰もいないヨウの家で、けたたましく電話のベルが鳴っているシーンを想像した。
きっと、もう家を出たんだと思い、ヨウの家の方に歩いて行くことにした。 国道に出て、走り去る何台もの車を眺めながら橋を渡り、修理工場と引越しセンターを通り過ぎて、ヨウの家の前に着いた。 もうその頃には、辺りはすっかり暗くなり始めていて、ヨウの家は、前に見たときよりも、ずいぶんと大きく見えた。 
「篭嶋」の文字は相変わらずそのままだった。 
どこにも自転車が無かったから、家に居ないことは分かった。
仕方なくもと来た道を辿り、また駅に戻ることにした。 ヨウがもしかしたら、行き違いであの公園にやって来ているかも知れないと思ったからだ。 歩いているうちに、随分暗くなってきたので、あの公園には街灯があったろうか、と考えた。

やはりヨウは来ていなかった。

もしかしたら、僕がブランコに居なかったので帰ったんだろうかとも思ったが、もう、そこまで考えるのはおかしい気がした。 僕が居ようと居まいと、ここに来たなら、ヨウはきっと一人でブランコに座っていただろう、となぜだか確信した。 …だから…今日、ヨウはここに来なかったのだ。

僕はまた歩き出した。
少し風邪をひいたように感じたので、薬を買おうと駅前の薬局に行ったが、あいにく定休日だった。 繁華街を抜けていった先に、もう一軒薬局があったのを思い出したので、そこまで歩いて行った。 風邪薬を買い、薬局を出たところで、数軒のホテルが立ち並んでいる向うから歩いてくる人影が目に留まった。 男と女が腕を組んで、寄り添うように歩いている。 男は脂ぎった感じの中年男で、女性の方は、とても生活に疲れた感じの服装をしている。 男と腕を組むよりネギを持っている方が似合っている感じだな、と思った。 そのまま行き過ぎようとした僕は、ふと何か胸騒ぎがして、もう一度振り返った。 はじめは何が気になったのか自分でもよく分からなかった。 やがて、女の方も僕に気付いて立ち止まり、凍りついたような表情で僕の顔をみつめた。
「…きょ…香子さん…」
僕は、かすれたように洩れた、自分の声を聞いた。

その日、それからどうして家に帰ったのか、自分でもよく憶えていない。
アパートに戻ると、部屋のドアに「柳原メモ」が貼られていた。 
「カゴシマ ×××病院に入院」 とだけ書かれていた。
| 西岡宏輝 | 14:28 | comments(0) | - | pookmark |
第五十五回 198X年10月30日
ヨウと待ち合わせたのは、それからほぼ一週間後のことだった。 
電話でヨウが指定したのは、例のガード下の公園だった。 「ブランコに乗って待っててよ」と彼女は僕に言った…という事は、ヨウははなから僕より遅れて来るという事なんだろうかと考えた。

とにかく僕はガード下に行って、公園のブランコに座った。 この前、ヨウがしていたように、身体をねじって空を眺めてみた。 確かに空は見えるが、ことさらよく見えるという程でもなかった。 おまけに、今日は曇り空で、ただ一面に灰色がどんよりと広がっているだけだった。 
体勢を元に戻して、今度は真上を見上げた。 ツバメの巣があった。 黄色い土と草で固められた巣の中に、小さな黒い塊がせわしなく動いているのが微かに覗いて見える。 もうすぐ…冬が来る頃には…あのツバメ達は南に渡っていくんだろう…と思った。 僕は、ツバメが去ったあとに残された巣を想像した。 その様子は、ついこの間に見た、ヨウの家を連想させ、それにつられて、僕は自分の住んでいるアパートを連想した。 連想したどちらの家も、なぜか空家だった。 

ヨウは来ない。 何十台目かの電車が、轟音を立てて頭上を通り過ぎたあと、そう思った。 もしかしたら、ヨウは今日もあの花屋で働いているのかも知れない、そして、予想外に客の数が多くて、予定時間を超えても残業をさせられているのかも知れない。 それで、僕はブランコを降り、花屋に向かって歩き始めた。 駅前は、いつもより人の数が多く、騒々しいように感じた。 僕は人波をかき分けて駅前をやり過ごし、花屋の反対車線側の歩道に立って店の中を覗いた。 この前見たおばさんと、ヨウより少し年上に見える女の子が働いていた。 どちらも茶色のエプロンをしている。 今日は、ヨウのバイトの日じゃないと分かったので、僕は近くの公衆電話からヨウの家に電話をした。
コール音が何度も鳴ったが、ヨウは出ない。
さっき連想した誰もいないヨウの家で、けたたましく電話のベルが鳴っているシーンを想像した。
きっと、もう家を出たんだと思い、ヨウの家の方に歩いて行くことにした。 国道に出て、走り去る何台もの車を眺めながら橋を渡り、修理工場と引越しセンターを通り過ぎて、ヨウの家の前に着いた。 もうその頃には、辺りはすっかり暗くなり始めていて、ヨウの家は、前に見たときよりも、ずいぶんと大きく見えた。 
「篭嶋」の文字は相変わらずそのままだった。 
どこにも自転車が無かったから、家に居ないことは分かった。
仕方なくもと来た道を辿り、また駅に戻ることにした。 ヨウがもしかしたら、行き違いであの公園にやって来ているかも知れないと思ったからだ。 歩いているうちに、随分暗くなってきたので、あの公園には街灯があったろうか、と考えた。

やはりヨウは来ていなかった。

もしかしたら、僕がブランコに居なかったので帰ったんだろうかとも思ったが、もう、そこまで考えるのはおかしい気がした。 僕が居ようと居まいと、ここに来たなら、ヨウはきっと一人でブランコに座っていただろう、となぜだか確信した。 …だから…今日、ヨウはここに来なかったのだ。

僕はまた歩き出した。
少し風邪をひいたように感じたので、薬を買おうと駅前の薬局に行ったが、あいにく定休日だった。 繁華街を抜けていった先に、もう一軒薬局があったのを思い出したので、そこまで歩いて行った。 風邪薬を買い、薬局を出たところで、数軒のホテルが立ち並んでいる向うから歩いてくる人影が目に留まった。 男と女が腕を組んで、寄り添うように歩いている。 男は脂ぎった感じの中年男で、女性の方は、とても生活に疲れた感じの服装をしている。 男と腕を組むよりネギを持っている方が似合っている感じだな、と思った。 そのまま行き過ぎようとした僕は、ふと何か胸騒ぎがして、もう一度振り返った。 はじめは何が気になったのか自分でもよく分からなかった。 やがて、女の方も僕に気付いて立ち止まり、凍りついたような表情で僕の顔をみつめた。
「…きょ…香子さん…」
僕は、かすれたように洩れた、自分の声を聞いた。

その日、それからどうして家に帰ったのか、自分でもよく憶えていない。
アパートに戻ると、部屋のドアに「柳原メモ」が貼られていた。 
「カゴシマ ×××病院に入院」 とだけ書かれていた。
| 西岡宏輝 | 14:28 | comments(0) | - | pookmark |

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