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第七十三回 198X年12月26日 (最終回)
ようやく掃除が終わった頃には、もう明け方近くになっていた。
ダッフルコートを着て、外に出た。 空腹のせいで、少しも眠くなかったからだ。
まだ夜は明けていない。 風がとても冷たくて、身体の底から冷えてくるのを感じた。
風の音の他に聞こえるのは、僕の足音だけだった。 

ポケットに手を入れると、さっき掃除の途中で入れたヨウの絵葉書紙が手の甲に触れた。 
煙草屋の角を曲がったところでポストを見つけたので、それを取り出し、街灯の明かりに照らして、もう一度読んだ。 
文面はたったこれだけだった。

「ユウスケさん、元気?
 私はとても元気です。   ヨウ」

僕は、僕に宛てられたその絵葉書をヨウの代わりに投函した。 

それから僕は、ゴミの集積場に行った。
自転車の部品を探すつもりだったが、堆く積まれているゴミの山を見て気が変わり、集積場を去った。
あの壊れた自転車は、壊れたままでいいと思ったからだ。
歩きながら、僕はあの自転車に、必死になって乗ろうとしたヨウの姿を想像した。 あの事故に遭った時から、きっとヨウは、こうする事に決めていたんだろうと考えた。

ゴミヤーズのグラウンドに着いた。
目を閉じて、何か楽しかった時の事を思い出そうとしたが、何も浮かんではこなかった。 「そんなものはもうないんだよ」と、カツミがすまなさそうに笑っている気がした。
風の音がびゅうびゅうとして、微かに乾いた草の匂いがした。 
コートのポケットに両手を入れたまま、僕はグラウンドの闇に向かって一歩踏み出した。 
サクッと音がして、靴の下の砂が僅かに転がるのを感じた。 

まるで、世界の果てに、たった一人取り残されたような気分だった。

サクッ、サクッとさらに音を立てて僕はさらに進んだ。 
歩きながら僕はコートからポケットを出し、そして大声を出した。 喉が千切れるかと思うくらいの声だ。 コートを置き、グラウンドを走った。 しかし、いくら走っても気持ちは収まらない。 風の音を聞きながら、全力で走りつづけた。 走りながらまた大声を出した。 とにかくめくらめっぽうに走った。 息が上がり、喉がヒリヒリと痛む。 肺が破裂しそうに膨らみ、心臓が飛び出すほど強く胸を打つ。 身体が軋み、脚が捻れそうになる。 それでも、僕は何度も大声を上げた。 

突然、ボゴッと音がして、下腹部に激痛が走った。
一瞬、息が詰まり、僕はグラウンドに倒れこんで、そのまま気が遠くなった。
薄れてゆく意識の中で、僕はカツミのことを考えていた。 それはかつて誰よりも速くグラウンドを駆けたカツミではなく、また松葉杖をついたカツミでもなく、あの日、傘をさしてひとりで雨の中を歩いてきたカツミだった。 カツミとヨウと一緒に居たとき、僕は楽しかったんだ、ということを理解した。

「おい、大丈夫か?」
目を開けると、広志さんと五郎さんがしゃがんで僕を覗き込んでいた。
「痛かったろ、五郎さんがよぉ、急にボール投げるからさぁ…ひっでぇよな…」
広志さんの顔が超アップだ。
「…だってよぉ…暗いとこで、変な奴が変な声出してるしよぉ…怖えじゃねぇか…」
ちょっと離れて、ボールを持った五郎さんがぼそぼそ喋っている。

僕はよろけながら立ち上がった。
…大丈夫?…大丈夫です…というようなやりとりの後、…じゃあ、そろそろ…と言いながら、広志さんと五郎さんも立ち上がって歩き始めた。 2,3歩あるいてから、広志さんがこっちを向いて僕に尋ねた。
「まだ、走れる?」

ヂリン、とヨウのベルが鳴った気がした。

先に走り始めた作業着姿の広志さんの後について、僕は走りはじめた。 
サクサクサクと広志さんのスニーカーの足音と、ザッザッザッザッと僕のスニーカーの足音が響く。 踏み出すたびに広志さんの頭が揺れ、僕の視界が揺れる。 広志さんの口元から、白い息が規則的に吐き出され、それと重なるように僕の呼吸する音がする。 そのうちに、足音と白い息以外の何も頭に入らなくなる。 暫くすると、前を走る広志さんの輪郭が少しずつくっきりとしはじめる。 霜の降りた足元の草が、うっすらと白く輝いている。 

五郎さんはやっぱり走らない。 
少し離れた場所で、身体をひねったり伸ばしたりするだけだ。 五郎さんの近くを横切ったときに、口笛の音が聞こえた。
「…本当は、全部が、すぐそばに流れてるの…」 ラジオを聞きながらヨウが言った言葉を思い出した。
小野さんが、あの家で掃除をし、丁寧に雑誌を積み上げる姿が頭に浮かんだ。 それから、香子さんが僕の知らない町で馴れない靴を履いてよろけながら歩く姿が浮かんだ。 

左手の空を見ると、夜が明け始めていた。 蒼い色が薄まるにつれて、そこに少しずつオレンジが混じり、その光が雲の形をくっきりと浮かび上がらせる。 
「…聞こえるか…カツミ…」 
ヂリン、ヂリン、ヂリン…僕たちの足音に合わせてベルは鳴り続ける。

…あの空を見て、ヨウは何と言うだろう…と思った。 
きっと、聞いても簡単には教えてくれないだろうな、と思うと、急に笑いがこみあげてきた。


Fin
| 西岡宏輝 | 11:42 | comments(12) | - | pookmark |
第七十二回 198X年12月25日 (4)
柴崎さんとの電話のあと、僕は部屋で寝転んだ。
部屋の中のチラシやビニール袋や脱ぎ捨てたコートが、もう殆ど暮れてしまった夕陽に染まっているのを眺めているうちに、眠ってしまった。 

気がついたらすっかり夜になっていた。 そのままじっとしていたら、少しずつ目が覚めてきた。 暗闇にも目が慣れてきて、眠る前に見ていたコンビニ袋なんかの形がよく見えるようになってくる。 すぅーっと息を吸い込んで吐いた。 頭の中は冴えていて、腕のだるさなんかも随分ましになっていた。 
僕は起き上がって蛍光灯をつけた。
部屋が明るくなると、急に部屋が狭くなったような気がした。 さっきまで眺めていたチラシやビニール袋が、ただのゴミ屑に見えた。 

お腹が空いていたので、何か買ってこようと思ったが、お金が殆ど無かった。 小野さん家のテーブルにあった一万円を借りてくるのを忘れたのに気づいた。 「あぁ〜、しまったなぁ〜」と思わず口に出してしまった。 

柴崎さんの言葉を思い出し、掃除をすることにした。

僕は、まず、押入れに入っている物を全部出した。 花柄模様が毛玉で歪んでしまった毛布、カツミが時々置いていったヤングジャンプ13冊、注ぎ口が欠けてしまった急須、どこで何のために拾ってきたのかすっかり忘れてしまった赤レンガ2つ、折りたたんだビニール袋やレシートが詰まった紙袋、そんなものが次々と出てきた。 そして、押入れの中がようやく空いた頃には、それらはどうやって押入れに入ってたのか分からないくらいに、部屋中を埋め尽くしていた。 僕は一息ついて、水を飲み、それから部屋中に広がったそれらを、捨てるものと捨てないものに分けた。 捨てるものはビニール袋に詰め、一杯になったら口をぎゅっとしばる。 捨てないものは、それまでよりいくらかキチンと部屋に並べた。 それでも捨てないものが減らないので、捨てないものの山から、また捨てるものを選び出した。 そんな事を3回ばかり続けて、ようやく分別が終わった。

ヨウが残した僕の絵をどうするかは、最後まで迷った。 手にとって眺めているうちに、一枚の絵の裏側に何かが貼り付けてあるのに気がついた。 チューリップ畑と風車の絵葉書だった。 剥がして見ると、それはヨウから僕に宛てたもので、とても短い挨拶のような文面だった。 消印もないところを見ると、きっとヨウはオランダでこれを書いて、ずっと出さずにいたんだろう。 
僕はその葉書だけを残して、他は全部捨てることにした。

そのあと雑巾を絞り、拭き掃除を始めた。 目覚まし時計もどこかに行ってしまって、今何時なのかさっぱり分からない。 まず最初は柱を拭いた。 カツミが鉛筆を差し込んだ穴に、雑巾をねじって差し込んで拭くと、雑巾の先が真っ黒になった。 カツミが消そうとしていた落書きの跡には、消しゴムカスが詰まっていた。 
それからカーテンレールを拭き、窓を拭いた。 冷え切った手が冷たくて、何度も手を止め、息で指先を温めた。 窓に映った自分の顔を見ると、知らない間に涙が出ていた。 泣いている自分の顔を見ていると、どういう訳だか分からないが涙が止まらなくなった。 それで、僕は一旦掃除をする手を止めて、泣き止むのを待つことにした。 それでも涙はなかなかおさまらず、僕は何度もしゃくりあげた。 そして、こんなに涙が出るのは、きっと、とても腹が空いているせいだろうと考えた。
| 西岡宏輝 | 11:40 | comments(0) | - | pookmark |
第七十一回 198X年12月25日 (3)
それから4時間かけて、僕はアパートに辿り着いた。 
腕はじんじん痺れて、脛には青アザだらけだった。 
自転車を2階に運び上げて、部屋の前に立てかけて、その傍らにしゃがんだ。
ハンドルが外からの僅かな光を捕まえて反射している。 その歪んだ反射の跡を辿っていると、この金属が、まるではじめからこんな形で作られたかのように見えてくる。

「おねえちゃんは来ないの?」
そう僕に訊いた女の子は、この自転車をヨウの自転車だと思っていた。 事故に遭って入院する前の日までの毎日、ヨウは、あの公園で自転車に乗る練習をしていたからだった。 
ヨウは自転車に乗れなかったのだ。 入院していた頃のヨウの身体に、骨折の他にもたくさんの傷があったのを思い出した。
そして、ヨウは初めて駅まで自分の力で自転車に乗ってきたその日に、あの事故に遭った。

あの公園で、それまで女の子がヨウとどんな話をしていたのか分からないが、女の子はコーラと自転車を見て、ヨウがまた公園に戻って来たのだと思ったらしい。 女の子が僕を見て驚いていたのは、そのベンチに坐ったのがヨウではなく、僕だったからだった。

僕は立ち上がり、廊下の少し離れたところ…ピンク電話の近くから、自転車を見た。
ハンドルもフレームもタイヤも、曲がってしまって、とても小さく見える。 しかし、自転車だと思わなければ、それはすごくバランスのいい歪み方をしていて、とてもこじんまりとまとまった物体に見える。

そんな事を考えながら、何気なく右手をピンク電話に置いた瞬間、急にピンク電話が鳴った。
ビクッとして、思わず振り上げた腕が受話器に当たった。 受話器が廊下に落ち、ガィンと、大きな音がした。 ぐるぐる巻いたコードをたぐりながら、受話器をつかみ、まだ口元に持ってくる前にしゃべり始めてしまった。
「…も…もし…も…し…」
「…もしもし…? ナカジマ…君…?」
柴崎さんの声がした。
「…あ…どうも」
人は、電話で喋りながらお辞儀をするというのは、本当だ。
「あのね」 …と柴崎さんが切り出した話は、つまり、このアパートがもうすぐ取り壊されるから…
「ナカジマ君には、出て行ってもらわなくちゃいけないのよ」
という、かなり衝撃的な内容だったが、そういうことをあっさりと言い放ってしまうのが、さすが柴崎さんだった。
「…それって…いつなんですか?」
「もうすぐらしいんだけど…社長があんなでしょ…よくわからないのよ。」
ごめんねぇ、と言ったあと、柴崎さんはさらに続ける。
「でも、行くところくらいあるんでしょ?」
…と、言われても、行くところが無いからここに居るのだ。
「…いや…特に…ないんですけど…」 
小野さんの淡々とした声を思い出しながら、僕は首を振って答えた。
「まぁ…無いの…?」
今、どうして僕は怒らないのだろう、と思った。
「…ん…まぁ、ナカジマ君はまだ若いんだから、何とかなるわよ」
「…はぁ…」
「何とかなるのよ」
柴崎さんはいつも前向きなことばかり言う。
「あのね、あなたが今、大変なんだろうってのは、私だって分かるんだけどね、でも困った状態ってのは、いつか何とかなるものなのよ。」
「…はぁ…そうなんですか…」
「食うに困れば、泥棒でもすればいいじゃない。 あなた一人が生きることに比べたら、それより重いものなんてこの世にはないの。」
「…でも…泥棒って……さっきから言ってることがムチャクチャじゃないですか…」
受話器の向こうから、ハハハハッ、という笑い声が聞こえる。
「だから、ナカジマ君は大丈夫なのよ。」
本当に柴崎さんは前向きだ。
「まぁ、掃除くらいはしておきなさいね、また連絡するから。」
元気出しなさいよ、と言って柴崎さんは電話を切った。
| 西岡宏輝 | 21:55 | comments(0) | - | pookmark |
第七十回 198X年12月25日 (2)
小野さんの電話を切ってから、僕はカツミのダッフルコートを着て、外に出た。 家に居るのが退屈だったからだ。

朝から降っていた雨が上がったばかりで、地面からアスファルトから立ち上る水分の匂いがした。 
空を見上げると、奇妙な形の雲が、微かに覗く青空を背景にして、頭上に横たわっている。 あの雲の形は何だろうと考えて、ひとつ思い出した。 ヨウのギプスに描かれていた「ねずみ」だ。

歩きながら考えて、加瀬さんの家まで行くことにした。 理由はうまく説明できないが、強いて言うなら、ヨウがあの家にもう居ないことを確認しに行くためだ。 行ったところで、ヨウが居るか居ないかなんて分からないような気がしたが、行けばなんとなくわかるんじゃないか、と僕は思っていた。 
そして、その思い込みは、とても簡単に証明された。 
加瀬さんの家そのものが無くなっていたからだ。 
見覚えのある家々の隙間に掘られた大きな落とし穴のように、その場所だけがごっそり切り取られていた。 かつて、ヨウが僕を覗き見た窓も、タカコさんが育てた花壇も、そんなもの、始めからなかったんじゃないかと思わせるくらい、そこには何も残っていなかった。

次に、ヨウの家に行った。
加瀬さんの家よりも、ずっと早く無くなってもおかしくない、あの壊れそうな家だ。
果たして、ヨウの家は前に見たのと同じ、傾いだままの形で残っていた。
玄関脇の柱に貼られていた「篭嶋」の紙切れはもうなくて、紙の剥がし跡だけが白く残っていた。
紙の剥がし跡のすぐ下のブザーを押してみたが、音は鳴らなかった。

壊れそうな建物の脇に、壊れた自転車が立て掛けてあった。
僕が直してヨウが壊した自転車だ。
病院に初めて見舞いに行ったときに、「必ず返す」と言ったヨウの姿と、加瀬さんの家のカーテン越しに僕を見ていたはずのヨウを交互に思い出した。

僕は、自転車をアパートに持って帰ることにした。
ぐにゃりと曲がったハンドルを持ち、自転車を曳くようにして歩いた。 タイヤも曲がっていて、うまく回らないが、自転車自体がそれほど重くないので、時間を掛ければなんとか歩いて帰れそうだ…と思ったのは最初の数分だけで、すぐに腕やら脚やら膝やらが痛くなってきた。 きっと不自然な格好で力を入れているからだろうと思った。 国道とは反対側の、住宅地に向かう上り坂に出てすぐのところに、公園があったので、そこで自転車を停めて持ち方やなんかをゆっくり考えてみようと思った。

ベンチの横に自転車を立てかけて腰掛けた。 
少し汗をかいていたので、コーラを買ったが飲んでいるうちに急激に身体が冷えてきた。 風も吹いている。 座っている樹脂製のベンチもガンガン冷えてきて、尻から冷気が這い上がってくる。 僕はベンチから立ち上がって、その場で足踏みをしながら、無意識にぐるぐると周囲を見回した。 ジャングルジム、スベリ台、砂場、シーソー、ブランコ…ブランコの腰掛部分は木製なので、少し暖かそうに見える。 それで、コーラをベンチに置いたまま、ブランコに座った。 鉄製のチェーンは冷たいので、腕組みをして座った。 ブランコの横にはトイレがあって、それがうまく風除けになっているようだ。 少し寒さが和らいだので、僕はそのまま暫くじっとしていた。 
ヨウとブランコに乗った日のことを思い出した。 あの日のヨウの印象はとてもぼんやりとしている。 よく覚えているのは、サクサクという公園の乾いた土の音と、廃屋の隙間から見た夕陽の色だ。 それから、僕のブランコに乗っていた後ろで、カサッと音を立てて立っていたヨウの姿と彼女の困ったような表情を思い出した。 もしかしたら、あの日から、ヨウは僕のことが迷惑だったのかもしれない、と考えた。 
ベンチに立てかけた自転車を小さな子供が眺めている。 女の子だ。 きっとハンドルやタイヤがグニャグニャに曲がった自転車なんて見るのは初めてなんだろう。 彼女を見ながら、…幼稚園か小学校に入ったばかりくらいかなぁ…あの年の頃、僕はまだ施設に居たんだなぁ…というような事を僕は考えていた。 あの頃の僕と、今の僕に見えている景色は、違っているんだろうか…大して今と変わらない気もするが、少し違っているような気もする。 
女の子は僕がベンチに置いたコーラを見て、それからコーラの横に腰掛けた。 僕と目が合ったが、うつむいて視線を逸らし、時々、遠くの方を見たりしている。

僕はゆっくりベンチに戻り、コーラをはさんで女の子の隣に坐った。
女の子が、あまりに驚いた顔をして僕を見るので、「コーラが飲みたいなら、どうぞ」と、声を掛けたが、女の子に変わりは無い。 女の子はじっと僕を見て、それから自転車を見て、また僕を見た。 
顔を強張らせている。
「この自転車は乗れないよ」
女の子は喋らない…が、じっとこっちを見ている。
僕としても見られているのは分かるが、見られる理由が分からない。 僕が子供の頃も、こんな風に人のこと見たりしてたのかな、と考えたりしていると、不意に、あの頃の僕の視界には、「あの頃の僕」なんてのは居なかったという事を発見した。 見ていることが世界の全てで、その世界はどこからも切り取りようもなく揺るぎないものだったということに気づいた。
「おねえちゃんは?」
不意に女の子が僕に話した。
僕はびっくりして、女の子の顔を二度見してしまった。 
「おねえちゃんは来ないの?」
女の子は、もう一度僕に言った。

おねえちゃん、というのは…ヨウのことだった。
| 西岡宏輝 | 21:53 | comments(0) | - | pookmark |
第六十九回 198X年12月25日 (1)
目を覚ましたとき、僕はどこかのベッドで眠っていた。 天井は壁と同じ白い壁紙で、外の陽の光が部屋の隅々まで届いている。 初めは、病院かなと思ったが、そうではないことにすぐに気付いた。 そして、少し時間が経つと、だんだん自分がどこに居るのかを僕は理解した。 
僕が眠っているのは、カツミのベッドだった。 
僕はベッドの中でシーツの匂いを嗅いだまま、カツミの部屋を見回した。 枕もとには、子供の頃からカツミ愛用のミッキーマウスの目覚まし時計がある。 背の低いチェストの上に、サッカーのインターハイで優勝した時の写真と、いびつな目玉の入ったダルマが置いてある。 帽子掛けには、つばの編み目のほどけた小さい麦藁帽子が掛かっている。 
僕はベッドから起きてゆっくりと立ち上がり、麦藁帽子を手に取った。 小学校4年の夏休みに、岡山県の牛窓という所にある小野さんの実家に遊びに行ったときに買ってもらった麦藁帽子だ。 小野さんは、もっと格好のいい野球帽かなにかを勧めてくれたのだが、カツミがこれがいいと言い張ったのを思い出した。 僕は麦藁帽子をまた帽子掛けに戻し、もう一度部屋を見回した。 机の手前の右隅にはきちんと削られた鉛筆4本がペン皿に並び、左隅の奥には国語辞典と英英辞典、そして「とっさの時の日常会話: ヨーロッパ編」という本が、ブックエンドで立てられている。 クローゼットを開けると、サッカーのユニフォームと高校の制服が目に入った。 シャツも全部洗濯されて畳まれている。 何を見ても、まるで明日にでもカツミが帰ってくるかのように、あるいは今さっきまでカツミがいたのかと思わせるくらいに、整然としてそこに佇んでいる。 しかし、それらを見れば見るほど、逆に、もうカツミは居ないのだというサバサバとした諦めのような気持ちが僕の中に湧き上がった。 そこにあるのは、カツミの残滓というよりも、むしろここに残った人間の強い意思のようなものだった。 鉛筆を削り、部屋の埃を払い、シャツとユニフォームにアイロンをかける香子さんの姿を、僕は想像した。 
それから部屋の窓を開けた。 12月の冷たい風が慌しく部屋の中に飛び込んできた。 
僕はものすごく腹の空いているのに気付いた。

1階におりると食卓の上に一万円札とメモがあった。
「ユウスケ、気分はどうですか。」 小野さんの字だった。
戸棚にインスタントのカレーうどんがあった。 湯を沸かして、麺と粉末スープを放り込んで、出来上がるのを待ちながら、食卓の上に置いてある新聞を手に取った。 それで、今日が12月25日だということを初めて知った。 つまり、僕は今日まで丸3日間眠っていたことになる。 時計を見ると、10時50分だった。 TVを点けた。 画面には歳末警戒で巡回に出かける警察官の姿が映されたあと、オーストラリアの師走として、ビーチで海水浴をする人々の姿が映された。 
僕はそれらを見ながら、カレーうどんを啜って食べた。 食べ終わって、食器を洗い、食卓のすぐ隣に続く居間に腰掛けて、水を飲んだ。 TVはうるさかったので消した。 それから目覚めた時に着ていたカツミのトレーナを脱いで、服を着替えた。 僕が元々着ていた服は洗濯されていて、テーブルの傍に置いてあった。 
再び居間に戻り、その部屋の片隅に、膝くらいの高さまで几帳面に積み上げられた雑誌の束があるのに気づいた。 それは小野さんが毎月講読している釣り雑誌だった。 ここに、この本を積み上げたのは、きっと小野さんだろうと思ったとき、ふと、別の思念が頭に浮かんだ。
僕は、もう一度キッチンと居間を見回した。 いつものように、とてもよく掃除されていて、食器もきれいに並べてある。 でも、そういうものを見れば見るほど、その「変化」は確かなもののように感じた。 
…香子さんは、もうここには居ない…

その時、電話が鳴った。 あわてて受話器を取った。 
「目が覚めたか?」
受話器から、少し笑うような小野さんの声が聞こえた。
「で、どうなんだ? 具合はもういいの?」
「うん、もう大丈夫みたい。」
「あぁ、そうか」 小野さんは言った。
居間の隅に置いてあるストーブから、ガスの燃える音がする。 香子さんのことが頭をよぎるたび、僕は頭を何度もかきむしった。
「きょ…香子さんなんだけどさ」 僕は少しつっかえながら、ようやく小野さんに言った。
「ん?」
「…あの日…えぇと…」
「あの日って?」
僕は受話器を持ち直した。 
「あの…小野さんと一緒に御飯を食べた日さ…あの日には、もう家には居なかったの?」
「…あぁ、そうだな…あの日にはもう居なかったな…」
知ってたのかと驚くでもなく、また、困ったなぁという風でもなく、小野さんは淡々と話す。
「…帰って来るのかな? 香子さんは…」
小野さんの様子に妙に焦って、僕は言葉をつないだ。 その自分の言葉を聞いて、もう香子さんはあの家に帰って来ないんじゃないか、とふと僕は悟った。 だからその時、僕は小野さんの答えなど聞かずに、そのまま電話を切ればよかったのかもしれない。
「帰って来ないよ。」
小野さんは、とても淡々とそう言った。
| 西岡宏輝 | 08:12 | comments(1) | - | pookmark |
第六十八回 198X年12月20日
翌日から、僕は、中華料理店のアルバイトのあと、深夜から朝まで、コンビニエンスストアのアルバイトをすることにした。 朝、11時から中華料理屋で働き、3時から5時までの中休みの間、アパートに戻った。 絵は一度も描かなかった。 5時半から10時まで、皿洗いをしたあと、深夜1時から朝の7時まで、コンビニエンスストアで働く…という毎日が続いた。 眠る時間が殆どなかったが、布団に入っても少しも眠くならなかったので、何の問題も無かった。 それでも、頭は冴え渡っていたし、食欲も旺盛だった。 中華料理店のおかみさんからは、アンタ、ずいぶん明るくなったね、と言われた。 

ヨウのことは、時々思い出した。
「…あなたは何にも分かっていない…」
と、ヨウが泣きながら僕に投げた言葉を、その度に僕は何度も反芻した。

あの時、ヨウはもう、いっぱいいっぱいだったんだと思った。

そうして1ヶ月くらいが過ぎたある日、突然、どうにもならなくなった。
まず最初に、空いた八宝菜の皿をカウンターまで運ぶ途中に手が滑った。 あっと思い、下げた目線の先で皿が粉々に砕け、欠片のひとつひとつが飛び散っていくのが見えた。 そして、それと同時に皿の割れる音が耳に飛び込み、その音はいつまでも僕の耳の奥で大きく反響した。 折れた桜の木が頭に現れ、続いて倒れたカツミの姿が浮かんだ。 僕は、飛び散った皿の欠片を拾おうと手を伸ばした。 しかし、どれだけ手を伸ばしても、身体はピクリとも動かない。 そればかりか、急に息苦しくなり、自分のはぁはぁという息づかいを聞きながら、自分自身がこの身体から離れていってしまったように感じた。 唾液が口のなかで粘ついていて、やがて目の前が真っ暗になり、それきり何も分からなくなった。
| 西岡宏輝 | 08:11 | comments(0) | - | pookmark |
第六十七回 198X年11月27日
数日後、大きな封筒がアパートに届いた。
差出人の名前は加瀬さんだったが、宛名の筆跡はヨウのものだった。
封筒の中には、僕が描いてヨウに渡した絵が数枚と、誰かの手紙が入っていた。
手紙の差出人と宛名を見ると、それが、カツミがヨウに宛てて送ったものだと分かった。

カツミからヨウへの手紙

「ヨウへ

カツミです。 手紙を貰ってから、僕はヨウのこと、ユウスケのこと、そして僕自身のことをとてもたくさん考えました。 ヨウがユウスケのことをいくら好きだとしても、ヨウには僕のことを知ってもらうことがとても重要だと思ったので、僕自身のことをきちんと書くことにしました。

前にも言ったことがあるけど、僕は小野家の実の子供じゃありません。 
僕とユウスケは施設で育って、もらい子として小野さんの家の子供になりました。 実は小野さんの他にも、僕を養子に迎えたいという話があったのですが、僕はユウスケと一緒でなければイヤだという条件を出して譲らなかった。 

施設では、僕の他にも何人もの子供達が貰われて行きました。もし里親候補の人が現れたら、その人と対面するときに、女の子は必ずリボンを着け、男の子は新しい靴を履かされました。 そうする事がいい事だと教えられていたし、先生は親になりたいという大人達に気に入られるようにいつも身ぎれいにしなさいと言っていた。 僕は一日も早く施設を出たかった。 施設の外には素晴らしい世界が待っていると聞かされていたし、ここを出ればもう園長先生に呼ばれてあんなことをしなくてもいいからです。 

ところが、最初に僕を養子に欲しいという人が現れたその日、ある事件が起こりました。僕より前に、ある夫婦に貰われて行ったケイジが戻ってきたのです。 
その夫婦連れが初めて施設にやってきたとき、オミヤゲに名前も知らない外国のチョコレートを持ってきました。 そのチョコレートを口にした途端、とろけるような甘さが口の中に広がって、「あぁ、毎日こんなのを食べたいなぁ」と僕は本気で思いました。 それで、その夫婦が来た時に、ことさら僕は子供らしく大きな声で笑い、走り回るようにしました。 大人はそういう子供が好きなんだと思ったからです。 でも、彼らが選んだのは、大きくて薄い色の瞳と栗色の髪をしたケイジでした。
そのケイジがどういう訳かまた施設に戻ってきた。 僕はひょっとしてケイジが何か変わったお菓子を持っているのかと思って、食堂に入った彼のところに行きました。 ケイジは閉まったままの窓枠に向かってパイプ椅子に坐っていました。 僕が行っても、ケイジは無表情に外を眺めているだけで笑いもしなければ、何の反応もしない。 どうしたのかと聞いても、何も答えない。 僕も何も言う事がなくなってしまって、風が鉄の窓枠を揺する音を聴いているうちに、どうして自分がケイジの前でこうして立ってるのかすら分からなくなってしまいました。 それで、何も言わずに廊下に出て、じっとしていました。 外は曇っていたけれど、廊下には雲の切れ間から差した日溜りがあって、そこにゴムボールが転がっていました。 僕はしゃがんだまま、そのゴムボールに当たる光をじっと眺めていました。 その時、ふと気づいたのです。
きっと、ケイジも園長先生に呼ばれていたんだ、ということを。

しばらくして、ケイジがあの夫婦の家を出た理由は、持病の喘息の発作が頻繁に起こったせいだ、という噂が流れました。 その日から、僕は考えました。 ケイジは、どうして駄目だったんだろう? 僕は、ただ単にお金がある人を探すだけじゃなくて、僕達のような人間でも嫌われない方法をちゃんと考えなきゃ駄目なんだと思い至りました。

次の日、砂場に掘ったトンネルにミニカーを通して遊んでいたときに、たまたま横に居たユウスケに「ねぇ、好きな人に嫌われたくないと思ったら、どうする?」と、聞いてみたのです。ところがユウスケは、何を言ってるのか分からないという顔をして、何も答えません。 仕方なく、「例えばさ、いろいろ好きな人とか、嫌われたくない人っているじゃん?」と僕は言いました。 するとユウスケはこう答えるのです。 
…嫌われたくないなんて、考えたこともない…
もしかして、こいつは馬鹿なんじゃないか、と僕は思いました。 それと同時に、こんな考えが浮かんだのです。 
…ユウスケのような奴が居れば、僕は嫌われない…
次の日、僕は先生に、もし僕を引き取りたい人がいても、ユウスケと一緒に、兄弟として引き取ってくれる人じゃなきゃ嫌だ、と頼んだのです。 
その時、僕を引き取りたいと言っていた夫婦は、僕のこの条件を聞いて、「ウチじゃ二人も面倒見るだけの余裕がない」と断ってきたそうです。 つまり、僕がこの条件を出すことで、相手の経済的な余裕まで測ることが出来るようになったのです。

そして、最終的に僕達を引き取ってくれたのが小野さん夫妻でした。 小野さんは、まさに僕の理想の夫婦であり、両親だった。
例えば僕達が正式に小野さん達の養子になって最初の日の夜、小野さんは、僕達二人を呼んで、自分達のことを無理にお父さん、お母さんと呼ぶ必要はない、と言ってくれた。 僕は、きっと小野さん達はお父さんお母さんと呼ばれたいんだなと思ったので、だから次の日、朝起きたときに、「おはようございます、お父さん、お母さん」と最初に挨拶をしてみました。 すると小野さん達は本当に嬉しそうな顔をしたので、僕は自分の想像が間違ってなかったと確信しました。 
ところが、ユウスケです。 ユウスケは二人のことを、小野さん、香子さん、と呼び始めたのです。 僕はユウスケの事をバカだと思いました。 どうして、小野さんに喜んでもらおうとしないんだろう、そう思いました。
小野さん達は、ユウスケのそんな態度を目の当たりにしても、ユウスケと僕に何一つ分け隔てすることなく接しました。 僕はますます小野さん達への信頼を深め、もっと二人に自分を気に入ってもらいたい、と思うようになりました。
学校に行けば、誰よりも勉強をし、スポーツだって、誰にも負けないくらいに熱中しました。 中学に入ると迷わずサッカー部に入りました。 小野さんはサッカーがとても好きで、学生時代にもサッカーをやっていると聞いていたからです。 高校のとき、インターハイの準決勝で負けてしまったときの話を、いつも、とても残念そうに、そして、嬉しそうに話すのです。 僕が父さんの夢を叶えてあげるよ、僕はいつもそう小野さんに言うようにしていましたし、そう言うたびに、小野さんは本当に嬉しそうに目を細めて笑うのです。

でも、ユウスケです。 ユウスケは、小野さんと香子さんが、いかに僕らを愛そうとも、全くそれに応えようとしない。 そればかりか、喧嘩や万引きなど問題ばかり起こす。 その度に父さんと母さんは、ユウスケのために仕事を休み、学校に出向き、同級生の家に詫びに行き、また時には警察まで出向く。 その度に心を砕く二人の姿を見て、僕はユウスケを軽蔑し、さらに良い子であろうと努力しました。 ユウスケが問題を起こせば起こすほど、父さんと母さんの愛情が僕に向くと思ったのです。 ところが、家で二人が話すのはいつもユウスケの話ばかり。 小野さんも香子さんもユウスケと僕を同等に扱うばかりか、むしろ問題ばかり起こすユウスケにばかりに気を取られている。 
そのことに気付いてから、僕は小野さんにユウスケを一緒に引き取ってもらったことを後悔するようになりました。

だから、ユウスケが家を出て、一人暮らしを始めたときには、僕は本当に嬉しかった。 そして、実際に、その日から、ようやく二人の本当の息子になったような穏やかな日々が始まりました。 毎日、学校から帰り、夜には一緒に食事をし、父さんと母さんと、お互いのことをゆっくりと話す、本当に僕が望んでいた時間がやってきたように思いました。 自分は間違っていない、そう思えるようになり、そのうちにサッカーも海外での試合が決まり、ユウスケに感じていた、トゲトゲした感情はだんだんと消えていきました。

ヨウに出会ったのは、丁度そんな頃のことです。 

ヨウがユウスケに惹かれているのは出会った頃から、なんとなく感じていました。 でも、僕自身もヨウに惹かれていくにつれて、ヨウがそれまでの人生で得ようとしても得ることの出来なかった、「家族」や「変わらない愛」、というものを埋めることが出来るのは、ユウスケじゃなくて僕の方なんだろうと感じていました。 だから、ヨウがどうしてユウスケのような人間に惹かれるのか、まるで納得が行かなかった。 そういう思いが募れば募るほど、ユウスケがヨウに相応しくない人間であることを早くヨウに知らせなきゃならない、と僕は考えるようになりました。 
そして、僕は彼のルーツを調べることにしました。 そのことについて、僕は施設で少し噂を聞いたことがあったのです。 ある調査会社に、彼のの生い立ちについて調べてもらうように依頼しました。 誰にも…もちろん小野さん達にも…その事を知られたくなかったので、調査結果はユウスケの家に送ってもらうようにしました。 ユウスケが、僕から頼まれて受け取ったのが、自分の生い立ちの調査結果だった、ってことを考えただけで僕は興奮しました。 
でも、面白かったのはそこまででした。 
調査の結果、色々と分かったこともあったのですが、僕は気づいたのです。 
きっと小野さん達もユウスケの生い立ちなんてとっくに知っていたんだろう、ということを。 
誰にも、なんにも、知られていないのは、むしろ僕の方だってことを。 
僕がしたかったことは、本当は、ヨウに何か告げることじゃなかった、と分かったのです。 
僕は、何も伝えたくなかったんだ、と気づいたのです。 

そして、僕は昨日、ヨウから、はっきりと僕の敗北を告げる手紙を受け取りました。 だいたい予想していた通りの内容でした。 僕にとって、このことは決して思いがけない事ではなかったし、この先も、僕自身の定めたルール通りに行動するだけです。 だから、ヨウも、ユウスケも、これから僕の取る行動について、何ら気に病む必要はないのです。  

小野勝己」

カツミが、はしゃぎながら、児童公園でヨウのことを話す姿を思い出した。
なぜタカコさんが、ヨウを「自分達」から遠ざけようとしたのか、ヨウとカツミの、何が同じだったのか、そういうことに僕はその時はじめて触れた。 
カツミが死んだ日、ヨウがカツミに電話を掛けてきたのは、この手紙を読んだからなんだと理解した。 

僕は手紙と絵を封筒にしまって、押入れに入れた。 
| 西岡宏輝 | 23:33 | comments(0) | - | pookmark |
第六十六回 198X年11月25日
 翌日は朝から雨だった。
どう考えても、ヨウは嫌がってたなぁ…と思って、まぁ、雨だし、今度でいいか…とか考えていると、昼過ぎになって雨がやんでしまった。 一応、ヨウに行くと言ってしまった手前、仕事も休みだし、なんだか行かない訳にはゆかないもんなぁ…と考えて、全然気がすすまなかったが、加瀬さんの家に行くことにした。 しかし、どういう訳だか知らないが、いやだなぁ、と思いながら行く場所には、案外、早く着いてしまう。 

加瀬さんの家が見えてきて、…やっぱり、帰ろうかなぁ…と、僕はもと来た道を引き返し始めたが、
…なんだかそれもどうかなぁ…と思い、近くに見えた児童公園のベンチに避難した。
ベンチに座り、スケッチブックを広げたが、ぱらぱらと絵をめくっても何も考えられなかった。 そのうちに、…こんな絵のどこがいいんだろう…と思えてきて、じゃあ、ここに来た意味がないじゃないか、と思えてきたので、やっぱり帰ることにした。
そう思って歩き出すと、少し気が楽になって、やっぱり一度くらいベルを押そう、押してもどうせ加瀬さんが出てくるだろうから、それで帰らされて終わりだ、と思い、やっぱりまた引き返して、加瀬さんの家の門の前まで歩いた。
ひゅう、と風が吹き、風を受けたスケッチブックが僕の身体を横向きに押した。 コケそうになって、また立ち直してから、僕はゆっくりとベルを押した。

あのタカコさんが出て来るのかな…来たら何て言えばいいんだろう…何を喋るかくらい考えてからベルを押せばよかった…などということを考えながら、1分ほど待っても…本当は10秒か20秒くらいだったかもしれないが…誰も出てこなかった。
…あ…誰も出ないんだ…
と、思い、少し気が大きくなってもう一度ベルを押した。 やっぱり誰も出なかった。
とりあえず、ここを離れることにした。
少し歩き出してから、…もう家に帰ろうか…それとも少し公園で時間を潰してから、もう一度だけ来ようか…などと逡巡していると、目の前を、明らかに怪しい人間を見る眼差しで、知らないオバサンが通りすぎた。 露骨に顔を歪め、僕のことを足の先から頭までじろじろと見ながら、オバサンは加瀬さん家の隣の家に入って行った。 

そのオバサンの眼差しを見たとき、僕はあることを思い出した。 
それは、赤羽のことだ。
赤羽の事務所に行って、泣きそうになった日のことだ。
あの日、自分が考えていたことが、今なら手に取るように分かる、と感じた。
そのことが脳裏に蘇った瞬間、熱くなっていた動揺が急激に冷えてくるのを感じた。 
僕は、立ち去りかけた加瀬さんの家を、もう一度、振り返った。 
窓は全部閉まっていて、カーテンも全部閉ざされている。 初冬にさしかかる弱い光と風がそれぞれの窓を撫でているのが分かった。 そんな、2階の窓を見ていると、1箇所だけ、窓が閉まっているのに、カーテンが不自然に揺れているところがあるのを見つけた。

ヨウが見ている。
それを見た瞬間、僕はそう確信した。
僕はもう一度踵を返し、ヨウの居る家の門扉の前に立った。 そして、ヨウの居る部屋を見上げてから、再びチャイムを押した。
それでも、やはり誰も出なかった。 カーテンを見ながらそれを確認し、僕はすぐにこの家を後にした。
それからは一度も振り返らなかった。
ヨウが何を考えていたのかは相変わらず分からないままだったが、ヨウは自分の意思で、それしかないというやり方を選び取ったということは分かったからだ。

帰る道すがら、僕はヨウのことを考え、それから再び赤羽のことを考えた。
ひとつだけ発見したことがあった。
赤羽の事務所から逃げるように帰ったあの日、赤羽が僕を怒らせたんじゃなく、僕が誰かに腹を立てずには居られなかったんだ、ということだ。
| 西岡宏輝 | 22:55 | comments(0) | - | pookmark |
第六十五回 198X年11月24日
 電話をするたびに、僕はイライラが増すらしい、ということが少し分かってきたので、朝は電話をせずに線路の絵を描き、昼になってアルバイトに行った。 

昼の仕事が終わったあと、アパートに戻り、絵を描いた。 この前思い出した、巨大な船から見下ろした波と海の絵を想像しながら描いた。 描き始めてみると、工場の絵をなんかを描いているときよりもずっと面白い。 架空の絵を描くということは、普段描いている絵とは全然違うことを考えながら描くということが分かった。 一言で言うと、「これしかない」というものを見つけて決める、ということだ。 そして面白いことに、「これしかない」というものは、案外、ひとつでも色とか空間が決まると、そのあとは自然と決まっていくということが分かった。

そんな風にして、2日間が過ぎた。
天気が良いので、午前中に洗濯をした。 洗濯機を回している間に、ヨウに電話をすることにした。
2回コール音が鳴ったあと、ヨウが出た。
「…もしもし…」
「…あぁ…僕…ユウスケだけど…」
「…あぁ…」
まさかヨウが電話に出るとは思っていなかったので、正直、何を話していいのか分からなかった。
「……」
「…どうしたの?…」
「…あぁ…いや…」
「退院したのよ」
「…あぁ…そうだね…おめでとう」
その言葉に続けて、色々とありがとうございました、とヨウが言った。
それでもう、僕は喋ることがなくなってしまった。 
「…えぇっと…」
「……」
ヨウも何かを話す様子もない。
「…えぇっと…あのさ…」
「…ん?…」
「絵を描いてる」
「…あぁ、絵ね…そう…」
「ヨウの絵も描いてる」
「…へぇ…」
電話では、ヨウの顔が見えないので、ヨウが喜んでいるのか、そうでもないのかよく分からない。
「また絵を見て欲しいんだけど」
「…どういうこと…」
「うまく、描けないんだ…」
「今、加瀬さんの家に住んでるの。」
「…あぁ、そうなの…?…」
…あぁ…、という声が裏返ってしまった。
「…」
ヨウは黙っている。
洗濯機のモーターが、本体を揺らしながらグゥン、ガゥンと響いているのに気づいた。
「…もう…来たくないでしょ…」
ヨウの声は小さくて聞きとりにくい。
ブーッとブザーが鳴って、洗濯機のモーターがゆっくりと止まり始める。
「…いや…そんなことないよ…」
反射的にそう言った。
ぅわん、ぅあん…とモーターのスピードがだんだん遅くなり、それから小刻みにガガガガっと振動してから、洗濯機が止まった。
「…そうだ…明日、仕事が休みなんだ…だから行くよ…」
そうだ、仕事が休みなんだ、と自分で思い出しながら言い聞かせるように、僕は言った。
ヨウは黙っている。
「…そぅ…」
ヨウは、しばらく沈黙したあと、こう言って電話を切った。
| 西岡宏輝 | 22:46 | comments(0) | - | pookmark |
第六十四回 198X年11月22日
次の日も、僕はヨウの家に電話をした。 

朝起きてから電話をし、アルバイトに行く前に電話をし、それからアルバイトの中休みにもアパートに戻って電話をした。 外の公衆電話から掛けても同じことなのだが、どうしてだか、他の場所からは電話をする気にならなかった。 
それでも誰も電話に出なかった。
夜のアルバイトに出かけて、9時まで仕事をして、賄いを食べてから9時半に家に帰り、また電話を掛けたが、ヨウは電話に出なかった。

絵でも描こうと思ってスケッチブックを開いたが、ヨウの顔は相変わらず描けない。 他の絵を描こうとしたが、何を描いていいのかまるで分からなくなっていた。 頭をかきむしり、あ〜とか呻って、それでもどうにもならないので、時計を見たら11時になっていたから、慌てて銭湯に走って行った。 途中で、最終の快速急行が蛍光灯の光を撒き散らしながら、僕を抜き去った。 列車が去ったあとの、レールのずっと上で月がとても高く光っていた。

銭湯で、入浴料を払ってから、服を脱ぎ、タオルを持って浴場に入った。 僕のタオルはぼろぼろで穴が開いている。 タオルを買うお金くらいが無いって訳でもないのだが、くしゃくしゃっと丸めて持てば穴なんか分からないし、それでいいや、と思っている。 営業時間は11時半までだというのに、ずいぶん人が多い。 どぼん、と湯舟に浸かったとき、しぶきを隣の人に掛けてしまったので、すごい顔で睨まれてしまった。 そんなに睨まなくてもいいじゃないか、と思ったが、そこに居るのも何だか居心地が悪いので、隣の電気風呂に入ることにした。 お湯の色は黒というか、茶色というか…そんな色をしている。 「電気風呂」という響きがなんだか凄いので、今まで入ったことがなかったが、その時は誰も入っていなかったので、そこが一番いい場所のように思えた。 タオルを折り畳んで頭に乗せ、ずずずずっと入った。 ちょっと皮膚がぴりぴりするくらいで、案外大したことないなぁ、と思って、浴槽の真ん中あたりまで歩いていくと、おっ、おっ、おぉぉぉぉっ、と声が出そうなくらい、電気がビーン、ビーンと流れ、そのたびに背中の筋がギューンと張るので、こりゃスゴイけど、ちょっとなぁ…と思って、また浴槽の隅っこに戻ってぴりぴりと坐ることにした。 
ああああぁぁ、と声を出して、上を向いた。 この浴場じゅうの湯気が上に昇っていくのを目で追った。 高い天井の壁面に、ずらっと上開きの窓が並んでいて、それが全部開いていた。 こうして風呂に入りながら吸っている空気やら湯気やらが、あんなに高いところで知らないうちに、あの月夜の空に繋がっているということが不思議な気がした。 

浴場を出て、タオルの穴を隠しながら身体を拭き、銭湯を出た。 アパートまでの線路沿いの道を、自分の月影を見ながら歩いて帰った。 それから、その日はそのまま眠った。
| 西岡宏輝 | 03:37 | comments(4) | - | pookmark |

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